頭の中が忙しい

自閉症スペクトラムと付き合いながら今日も育児をがんばる日記

いじめられはしないけれど親しくもなれない

昔から人と親しくなるのが苦手だ。
特別いじめの対象になることもなかったし、常にひとりぼっちというわけでもなかった。
だけど油断すると「余りもの」になってしまう。いつも言いようのない寂しさが心にあった。

私は引っ込み思案で口下手、という典型的な「コミュ障」とは違って、むしろ饒舌で話が上手いと言われる方だ。だけど本当は雑談のときでさえ、あらかじめ頭の中で話を組み立てて、何度も何度もシミュレーションを重ねて作り上げた「作品」をよどみなく発表していた。その場その場のノリで軽妙にやりとりしているように見えて、実は練りに練った話題を話していたのだ。

おそらく、頭の中でストーリーを組み立てて繰り返し続けてしまう、という発達障害の特性の影響もある。


だけど、素のままの自分で話をするのが怖くて、「完成されたストーリー」という武器を持たずにはいられなかったのだと思う。

この「武器」のおかげで、初対面の人とも上手く接することができた。友達だろうが、目上の人だろうが、私にとっては緊張する対象であることには変わりなかったので、一見「誰に対しても物怖じしない」ように見せられていた。だから面接なんかは大得意で、エライ人相手にもぽんぽん会話ができた。

しかし、このやり方ではそれ以上親しくなることは難しかった。

「作りこまれた話」で素の自分を隠しているから、いつまでたっても壁があって相手と打ち解けられない。
だから2回目、3回目と会っても距離が縮まらない。それで、居心地が悪くなって自分からフェードアウトしていく。いつもこの繰り返しだから、挨拶する程度の知り合いは増えるし、大人数の集まりには呼ばれても、少人数で遊ぶような気心知れた友達はほとんどできなかった。

こんなことを20代半ばでうつを発症するまで、無意識に繰り返していた。「自分は誰ともなじめない寂しい人間だ」と頭の片隅では常に悩んでいて、多分発達障害のせいだろうと思い込んでいた。

うつの治療の一環として、認知行動療法催眠療法を受けた。
そうする中で、「失敗を極度に恐れている自分」がいることに気づいた。

「遊びに誘ったのに、先約があって断られた」とか「友達に話がつまらないと思われた」とか、ささいなことが、致命的な失敗になると思い込んでいて、絶対に避けなければならないとプレッシャーに感じていた。それで、失敗を相手に見せるくらいならはじめから距離を置いた方がまし、と心を閉ざしていたことに気がついた。

だから相手に敢えて弱音を吐いたり、恥ずかしい部分を見せたりしようと決意した。
だけど、最初はやり方がわからず「変な自分」を表現すること自体が目的に成り変わってしまった。過剰に毒舌を吐いたり、本当は他人に知られたくないことまで打ち明けたから、却って自分を傷つける結果になった。

やっぱり人と関わるのって怖いなと思った。

今年に入り、出産と転勤が重なったことで家で子供と過ごす時間が圧倒的に長くなった。
いろんなことを考えるけれど、話す相手がいなくて、それでも誰かに聞いてほしくて、ブログに書くことにした。本当に自分が誰かに言いたいことが、少しずつ整理されてきた。
そんなタイミングで「あいさつ程度」の仲のママ友と偶然再会した。久しぶりの他人との会話がうれしくて、ついつい身構える暇もなくブログに書いたような「本音」を話してしまった。一瞬「やばい」と思ったけれど、そこから会話が盛り上がって、「打ち解けることができた」という実感が湧いた。もう「作りこまれた話」という武器は必要なくなっていた。


これまで私は「相手に自分がどう映るか」とか「この集団の中で自分の立位置はどこか」とか、自分のことばかり気にして全然目の前の会話に集中できていなかった。


目の前の相手と「話したいから話す」そういう素直な感覚に従うだけでよかったんだ。

うつの波が来ると、今でも「私は誰ともなじめない寂しい人間だ」という思いに襲われる。未だに断られるのが怖くて自分から人を誘うのはなかなかできないし、頭の中で会話を組み立てるくせは健在だ。だけど、他人と「打ち解けた」という感覚を経験できたんだから、失敗したって大丈夫。