頭の中が忙しい

自閉症スペクトラムと付き合いながら今日も育児をがんばる日記

被災者だったとき辛いのは「暇」だった

午前中、またうつの波に襲われた。

家にこもりきりになると暗くなるので、ベビーカーを押して散歩に出かけた。
どんどん歩いていると思考が回りだし、「もしかしてうつの波は月曜日に来ているのかも」と気がついた。

どうやら、土日夫が家にいて家事育児を手伝ってくれ、リフレッシュさせようとしてくれているのに、上手くリフレッシュできない焦りで疲れてしまうらしい。われながら面倒くさい性格で困ってしまうけれど、とりあえず自分のサイクルがわかったからよしとしよう。

月曜日は、落ちる前提で準備しておく。うつが来ても夕方には治る。


前回の記事で、「弱者でも役割がほしい」という内容を書いたのだけど、うつになる以前にも一度同じことを強く感じた経験がある。
busyrain.hatenablog.com

東日本大震災のときだ。

私は当時、地元を遠く離れた東北地方の大学に通っていて被災した。
幸い家が壊れたり、怪我を負ったりすることはなかったが電気・ガス・水道が止まった。
とりあえずは、避難所に行ったもののまだ救援物資も届いておらず何もない体育館でたくさんの人が座り込んでいるだけだったので、「これなら家にいた方がましだ」と帰宅した。運よく合流できた大学の友人たちと、家に集まってすごすことにした。

日中は街に出て買える食べ物を探し、なるべく体力を消耗しないようにアパートにこもって布団をかぶりながらじっと過ごした。電気が使えないから、いつもみていたニコニコ動画も見られないしTVも観られない。ひたすらトランプをしていた。

正直、暇で暇で仕方なかった。

だんだん情報が入ってきて、沿岸部は津波で大変なことになっていると知った。集まった仲間の中には実家がまさにその地域と言う人もいて家族が行方不明だった。それでも何もできなかった。
かろうじて通じた携帯には、家族や友人、先生から連絡があり「大丈夫か」「早く帰って来い」と心配された。ぴんぴんしているのに、私たちも「被災者」だった。

その後臨時のバスが出て、私は5日ほどで東北を出ることができた。でも、何もせず過ごす時間はもどかしく、本当に長く感じた。これ以上長くいたら、病んでいたかもしれない。

一方、同じ大学の友人にも、避難所で過ごしたという人がいる。
数日過ごすうちに、周りの人たちもどんどん暗くなっていった。
怪我もなく身体は元気なのに、日に日に落ち込んでいくおじいさんに、友人は「一緒に掃除をしよう」と声をかけ、体育館に雑巾掛けをし始めた。
おじいさんも釣られて雑巾がけをするうちに、だんだん表情が明るくなっていく。すると他の人たちも一緒になって掃除を始めた。結局、その避難所では友人の一声がきっかけで、ボランティアと被災者とが一緒に仕事をして運営していったそうで、人と人との関わりも生まれ団結して避難生活を送れたらしい。


人って結局、助けてもらう一方にいるよりも、何か役割がある方が強くいられるんじゃないかと思う。
弱者の立場で「仕事がしたい」とか「暇だ」というと不謹慎とか、贅沢だと叩かれやすいけれど、立ち直る原動力として「仕事を与える」って有効だと思うんだけど。