頭の中が忙しい

自閉症スペクトラムと付き合いながら今日も育児をがんばる日記

「変わり者」であってほしいという期待

発達障害者の中には、「天才型」と呼ばれるタイプの人たちがいる。
日常の「当たり前」のことができないのに音楽に突出した才能があったり、数学が抜群にできたり。
人とのコミュニケーションが下手な「変わり者」だけど、人と違った発想ができたりすることで一目置かれている…そんなキャラクターとして物語で描かれたりもする。

おそらく私は、この「天才型」の発達障害であることを親に期待されて育ったのではないかと思っている。

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例えば、幼稚園のころにいとこや兄弟たちと一緒に遊園地に連れて行ってもらったとき、親たちが子供たちみんなにキャラクターのお面を買ってくれた。
女の子がみんなキティちゃんを選ぶ中、私だけがばつ丸という男の子向けのキャラクターを選んだ。
実は、キティちゃんには「口がない」と思っていて怖かったから避けただけだったのだが、親たちは「センスが他の子たちとは違う」と喜んでことあるごとに人前で披露した。結婚前に両親の顔合わせをしたときにもこの話を得意気にしたのだから、「変わり者」の選択をしたことがよほどうれしかったのだろう。

もう少し年齢が上がって幼稚園の年長になったころ、私も他の女の子と同じように「セーラームーン」に憧れるようになった。
ちょうどその頃、遠方に住むおばあちゃんがセーラームーンのコンパクトのおもちゃを買ってきてくれた。めったに会えないおばあちゃんだったので「この子が何を好きなのかわからんから、お店の人に聞いて買ってみたけど喜ぶかしら」といいながら私にくれようとした。しかし、母はすかさず「この子変わってるからこんな女の子のおもちゃ喜ばないと思う。ごめんねおばあちゃん」と謝っていてたので、とっさにうれしい顔になるのを我慢した。

少女マンガをまねして目がキラキラの女の子の絵を描いたとき、クラスの子のマネをして丸文字を書いたとき、両親は「普通の子になっちゃったね」と悲しそうにした。その顔が見たくなくて、私は努めて男っぽく振舞ったり風変わりな行動をとったりした。


一方、子供のころ勉強は良くできた。
もともと字を書くのが好きだったから、よく机に向かって勉強をしていた。田舎の公立小学校・中学校ではそれだけでトップクラスの成績を取るには十分だった。

しかし田舎の中学校ではヤンキーが権力を握っている。まだまだ大学に行く人も少ない環境だった。だから、「勉強ができる」ことは尊敬されるどことか「ガリ勉キャラ」として見下されたり、いじめられることもあった。

そんな風潮の中で、単なる優等生はむしろ恥ずかしいことだったので「天才的な変わり者」キャラが更に期待された。
だから私は、服を選ぶときも、発言をするときも、「普通っぽくない方」を選ぶようになっていった。それが自分の本心だと思い込んでいたけれど、心の奥底にある本音は違っていたのかもしれない。

以前のブログで、「もしかしたら自分に恥ずかしい奴でいなければならない」という呪いをかけているかもしれないと書いたのだが、その呪いの正体は「変人を演じなければならない」だったのではないかと思っている。

busyrain.hatenablog.com

最近は「自己肯定感」を高める、ということに注目が集まっている。育児に関しても「ありのままを受け入れましょう」と言われることが多い。
だけど「ありのままを受け入れる」の前には、「他の子と違っても」という意味が隠れていることが多いように感じる。もちろんそれはすばらしいことだけど、「平凡な子でも」ありのままを受け入れることを忘れちゃいけないと思う。