頭の中が忙しい

自閉症スペクトラムと付き合いながら今日も育児をがんばる日記

私が「変わり者」でなければ浮かばれなかった母のこと

「普通の子とは一味ちがった子でいてほしい」
両親からそんな期待を感じて育ったという話を書いた。

busyrain.hatenablog.com


この記事をアップロードした後、どうして親はそんな風に期待したのかをもんもんと考えていて、母が子育てしていた環境について思いをめぐらせてみることにした。

私の母は東京生まれ東京育ち、結婚して初めて実家を離れることになった。
両親が新婚生活を始めたのは、父の地元で東京から遠く離れた田舎町だった。田舎といえどかつては城下町として栄えた土地で、地元の人たちは自分たちの住む町に誇りを持っていてよそ者に厳しいところだった。
だからたぶん、東京から嫁に来た母に対しても近所の人は冷たかったのだろう。

私が物心ついた頃には、母は地元の人たちに対して敵対心丸出しだった。私が地元の方言を話すことを嫌い、母の前で訛りが出るとその都度「正しいイントネーション」を教えられた。

小学校に入って掛け算の九九を覚える宿題が出たときも、「5×5=25」の「ごご」の部分が訛っていると言い直しさせられたほど、徹底していた。

そんな調子で、母は私たちの地元に馴染もうとは一切考えていなかった。
もちろん私たちが小さいころは「ママ友」付き合いくらいはしていたけれど、本当の意味での友達とは思っていなかった。
(母になった今、ママ友付き合いってそんなものかなと理解はできるようになったけど)

更に数年後、父の両親との同居が始まった。母は姑から「新参者」を意味する方言で呼ばれるようになった。それは同居開始から20年ほど経った今も続いている。そして「新参者」らしく、家の商売を手伝わされ、家事も担わされ、外に働きに出たり趣味にいそしむ暇は与えられなかった。

何年経っても「よそ者」扱い、会社に属しているわけでもない、夫も姑も気持ちを理解してくれない。
そんな状況の中で、ますます母は「東京出身」だということを拠り所にするようになった。

進路相談のときに、私が地元の進学校A校を目指そうか遠方の国立B校を目指そうか迷っていたときも「A校はここら辺では頭がいい扱いだけど、東京だったら全然上じゃないのよ」と諭された。
それから、中学でおしゃれな子がストレートパーマをかけてきたと話すと、「あんなツンツンの髪しているのは田舎者だけよ。東京だと笑われるよ。」と言われた。


東京には「本当」の世界があって、地元は「間違った」世界なんだといわんばかりだった。

大人になった今考えれば、確かにA校の偏差値は決して高くはないし、不自然なほどまっすぐなストレートパーマを当てた髪はダサい。だけど、あのとき紛うことなき田舎の中学生だった私にとって、「A校やストレートパーマに憧れる」という感覚もまた「本当」だった。

だけど私が、地元の方言を話し、周りの子と同じように髪をストレートにし、田舎の進学校に進んで平凡な田舎の暮らしに馴染んでしまったら、きっと母は「一人ぼっち」になってしまう。
そんな危機感が心のどこかにあったから、私なりの妥協案として「変人の天才」でいることを選んできてしまったのではないかと思う。

大人になって、就職をして、東京に住んだ。
学生時代はどこにいても「馴染めていない」感覚が常につきまとっていたけれど、やっと本来の自分の世界で暮らせる。
そんな淡い期待があったけれど、結局「本当の居場所」なんて東京にもなかった。

そしてうつになって、病院に通ったり、人と話したり、本を読んだり、もがきながら「自分で心地よい人や場所を選んでいくしかないんだ」ということにようやく気がついた。

母のことは未だに気がかりだ。今でも、一人で苦しんでいるんじゃないか、自分が「変人」の仮面をかぶったピエロになってそばに居てあげないといけないんじゃないか、と思うことがある。
でもそれではいつまで経っても「本当の居場所」には行けないから、敢えて近づかないようにしている。

自分のことは自分で幸せにしてあげないといけない、ということに母は気づいてくれるかわからないけれど、せめて子供には教えていければいいなと思う。