頭の中が忙しい

自閉症スペクトラムと付き合いながら今日も育児をがんばる日記

鏡を見るのが恥ずかしい

鏡に写る自分にびっくりするときがある。
たまたま通りがかったお店のガラスに反射した姿とか、洗面所の鏡が無意識に視界に入ったときとか。

先日も、公園でピクニックをしたあとデパートで買い物をするというフルコースのお出かけを楽しんで家に帰ってきて、玄関の姿見をぱっとみたときに、あまりにも全身まっ茶色の服を着ていた自分に始めて気がつきぎょっとした。

まさか自分がこんな格好で出歩いていたことに落ち込んだ。

私は決してファッションに疎いわけではない。
ちゃんと意識しておしゃれして出かけたときは、周りの人に溶け込めるくらい普通の格好ができている。

だけど、とんでもない格好をしているときがある。実際、「今日どうしたの?」とつっこまれることもあるから思い過ごしではない。

たぶんその原因は「鏡を見るのが怖い」からだ。

自分の顔が特別嫌いでもないのに、鏡を見るのがこっぱずかしい。
自分が写る写真も直視できない。
夜中に書いたポエムを次の朝、正気に戻って読み返すような気恥ずかしさがあるのだ。


私は心のどこかで自分自身を「恥ずかしいやつ」だと思っている。

がんばって面白い話題を提供しているうちはいいけれど、ありのままに自然に振舞えばいつの間にか「ぼっち」になってしまう。
誰かのマネをしていれば普通の格好ができるけれど、自分のセンスで選んだ服を着るとダサくなる。

そんな怖れが常にある。
自身がないから、自分を鏡で見ることに、大勢の前で滑っている芸人さんを見ているようないたたまれなさを感じるのだ。


毒親」をテーマにしたコミックエッセイで有名な田房永子さんが、『呪詛抜きダイエット』という著書の中で同じような体験を書いていた。

田房さんは子供のことから太っていることがコンプレックスで、いつも痩せたいと思っているのに、カロリーの高いものを無茶食いするのをやめられない。自分の全身をちゃんと見ることを恐ろしいと感じ、鏡をちゃんと見ることもできない。
無茶食いするときは「身体がのっとられたような感覚でコントロールできない」と感じることから、心療内科心理療法を試す中で、自分が「みじめな姿でいなければならない」という「呪詛」にとらわれていたことに気がつく。
幸せそうに見えない自分の母親たちに対し、「自分だけ幸せになってはいけない」という遠慮があり自らキレイになることを避けていたのだ。
そのことに気がついてから、「自分は醜い」という前提で鏡を見ることがなくなり、コンプレックスを乗り越えていくという体験が綴られている。


私の中にも「呪詛」がある気がする。
「女らしくしてはいけない」
「イマドキの格好をしてはいけない」
「苦労人でなければいけない」
「変わり者でなければいけない」
「恥ずかしいやつじゃなきゃいけない」

こういう「呪い」を解いて、ばっちりおしゃれをしていないときの「普通」の自分を受け入れられるようになりたい。