頭の中が忙しい

自閉症スペクトラムと付き合いながら今日も育児をがんばる日記

「ていねいな暮らし」はしたい人だけすればいい

夫の転勤に伴って移り住んだ土地は田舎だ。良くも悪くも昔の風習が色濃く残っている。

母親世代の人と話していると、あまりに古風な価値観に衝撃を受ける。

以前たまたま病院の待合室で隣になった、60歳くらいの女性の「嫁入り」話も強烈だった。

嫁ぎ先の家から「嫁入り道具」として準備するように言われたのは、着物が詰まった花嫁箪笥、鏡台、お客様用の布団を入れた長持、ピアノ、車。

これらを全部揃えて婚家には入り、新婚旅行に出かける。するとその間に近所の人たちが勝手に見に来て、箪笥の中まであさり下着まで見られ値踏みされるそうだ。

たかだか一世代前ですら、「嫁」の扱いがこんなにも酷いものだったのかと絶句してしまう。

もう1つ印象的だったのが、母親が嫁入りに際して割烹着を20着も縫って持たせてくれたという話だ。「子供が産まれたら10年は家から出られない生活になるから、一年に2着ずつ割烹着を下せば10年着るものには困らない」と用意してくれたのだそうだ。

つまり10年間は、毎日おしゃれもせず家のことに専念することが、当たり前に期待されていたということだ。
しかも姑からではなく実の母からなんだから、意地悪でもなんでもなく、ごく自然にそうすべきだと思われていたと考えるとぞっとする。


この辺りは、町家風の古い日本家屋が多く、綺麗に維持するだけでも大変そうだ。しかしどの家も塀の隙間から覗く庭は整然としていて軒先にも手入れの行き届いた鉢植えが並び、季節の花々が咲く。冬場には干し柿を吊るし夏前には梅干しを干している家も多い。「古き良き日本」という言葉がぴったりな暮らしが残っている。

そんな暮らしを維持していくには「嫁」が家庭に入り、家事に専念していないと立ち行かないくらいの労力が割かれていることが容易に想像できる。


だけど、普通のマンションに住み、庭も持たず、核家族で手がかかるのは我が子だけ、と言う今の私たちの暮らしは、はっきり言って大の大人が人生をかけてまで維持しないといけないほどのものとは思えない。

専業主婦を貫き、敢えて「ていねいな暮らし」をするのも1つの生き方だと思うけれどそれはもはや趣味の領域だ。

私は、機械でもできることは家電に任せればいいし、日々の食事もささっと作れる家庭料理の範疇でいいや、梅干しも干し柿も買えるものは買えばいい、という価値観だ。

だから、わざわざ仕事を諦めてまで家庭に入らなくても、「生活を回すための家事」ならば十分やっていける。

私自身もともと田舎者なこともあり、心の片隅で「家事育児は手間暇かけてこそ」とか「結婚したら夫や子供を支えるために生活すべき」という風に思っていたところがあって、「やっぱり社会で活躍したい」と思ってしまう自分に罪悪感があった。

だけど手間暇かけて、人生かけてまで維持するような「家」なんて、一昔前の古き良き日本の生活をしてない以上はじめからなかったのだ。

せっかく自分の生き方を自分で選べる時代なんだから、変に罪悪感に縛られないで生きていきたいなと思う今日この頃。